レポート: 言語学習システム

本レポートでは異言語を素早く習得する方法について実験・解説したいと思います。
言語学習には様々なメソッドが存在します。単純に専門の言語学校へ通い、地道に文法から学ぶ方法もあれば、お金を一切使わず自習する方法があります。どちらが有効かは主観的な上、各々の能力次第なので他人の経験に関しては語りませんが、個人的に効果的だった方法を解説し、その方法を活かして一つの言語習得に実験してみたいと思います。
システム:
僕自身が利用する言語学習システムは人工知能、翻訳、地道な入力作業に加え、初心者用教科書を活用します。
概要は:
①自分で思いついて書いた「面白い」内容をターゲット言語に翻訳機を通してアウトプットし、
②そのアウトプットを地道に自分でパソコン入力をしながら、
③辞書を引いて分からない単語を学習します。
②の入力段階があるからこそ、新たな言葉が習得できて、馴染みある面白い内容の中で翻訳をしていきます。また、このプロセスはターゲット言語の文字入力を促す効果もあります。

① クロードのAIを使ってユーラシアン・オデッセイの翻訳したい部分を翻訳。

② ワードのウィンドウを2つ同時に使って原文(左)と見合わせながらアラビア文字で AI が翻訳してくれた文書を手動で入力していきます(黄色の蛍光線は新しい単語、カッコ内はその意味)

③ グーグル翻訳には便利な辞書機能が右側にあるので、徹底的に文書を理解するのに欠かせません。
評価方法
まず、僕が元から話せる言語は:英語と日本語です。
本レポートで紹介するシステムで以前習得した言語は:イタリア語とロシア語。両方とも、ある程度話せます。本レポートで習得・上達を試みるペルシア語(Farsi)は調査開始時点でほんの少ししか話せません。
レベルを測定するには公式な試験に頼らず、単純に実践的な測定方法を活用したいです。例えば、僕は自分で習得したイタリア語を使って電話で会話をすることができます。30分〜45分間、英語が全く喋れないイタリア人と電話で話しました。
一方、元彼女と話す時に、踏ん張って10分間、ロシア語で話せました。
ペルシア語で電話で話す場合、僕のレベルは5分以下です。
ペルシア語で電話で話せる時間を増加できれば、上達したと言えるでしょう。
実験+練習
本調査では、ターゲット言語を練習するためにその言語が使われる国へ渡航して旅をします。そうすれば、その言語文化圏に沈み込んで、素早い結果が出せると想定しました。そのために2〜3週間、タジキスタンとアフガニスタンの間を旅してみようと思いました。

上記の地図がペルシア語とその方言が使われる言語圏のおおよそを表示しています。東からタジキスタン、アフガニスタン、イランはペルシア語の方言である Tajik と Dari と Farsi が使われます。
2026年4月、できるだけの言語習得をして、可能な限り電話での通話時間を伸ばしてみせたいと思います。
タジキスタンへ
インド首都ニューデリーからタジキスタン首都ドゥシャンベへ 4月6日 に自転車を積んで飛びました。空港に着いたら、周りの人々は皆ロシア語で話していて、僕にもロシア語で話しかけてきます。それは何故かというと、まず僕の外見はかなりこの地域の人に似ているのと、タジキスタンは旧ソ連なのでロシア語がタジク語に加えて公式言語なのです。ロシア語は話せますが、この国に来た理由はロシア語を練習するためではなく、ペルシア語を上達させたいので、つたない Farsi で現地の人と話してみました。
タジキスタンで話されるタジク語はペルシア語の方言で、基本的に互いを理解できます。しかし文字はアラビア系の文字ではなく、キリル文字で書きます。一方、アフガニスタンとイランでは同じ言葉を表現するのにアラビア系の文字が使われます。さらにタジキスタンの都会の人々は皆ロシア語を喋り、英語も喋れる人が多いです。よって、Farsi を使う機会を増やすためにタジキスタンの首都を離れて、南へ、アフガニスタンへ向かうことにしました。
一週目は雨がたくさん降り、ホテルで停滞して、雨が明けたらのんびりとアフガニスタン方面に向かって自転車で移動しました。タジキスタンの首都ドゥシャンべで、ホテルのクリーナーが可愛らしいタジキスタンの女性で、キョロキョロ僕の方を見てくるので、言語練習相手になってくれないか聞いてみました。彼女とインスタを交換し、このレポートが終わるまでペルシア語での会話スキルを上達させる相手を早速ゲットしました。
僕がペルシア語が少し話せる理由は、ユーラシアン・オデッセイでイランを通過したときにその国の文化に魅了され、勉強したためです。そのために買った本を下記に参照します。非常に良く書かれた言語学習の教科書です。この本のおかげでペルシア語で使われるアラビア系の文字も読めるようになり、基本的な文法構成を習ったものの会話ができると言えるレベルまで程遠いです。

正直に言うと、ペルシア語に魅了された本当の理由とは当然、女性のせいです。夕日が暮れる中、ドゥシャンベからアフガニスタンとの国境へ自転車で向かっている道中、この事実に気付きました。本レポートを書き始めた理由と、ペルシア語を学んでいる理由。それは、イランに残した「ペルシア猫」のフーリエの異常に長続きする影響にあったのです。
彼女との短な間の恋を経て、ユーラシアン・オデッセイ第三巻に「ペルシア語をちゃんと学んで、いずれ戻って来なくてはならない、未練が僕に残された。」と記載しました。その恋は短かったが、深く、長く続づいてしまっています。もしかしたらそれは、僕たちの恋を完全にする機会が訪れなかったからかも知れません。あるいは、そんなのは関係ないのかも知れない。
いずれにせよ、フーリエを最後に見たのは 2年以上前のこと。それ以降、2 回もイランに戻り、彼女との再会を試みたがフーリエは僕にそのチャンスを与えてくれなかった。最近でイランを訪れたのはたったの3ヶ月前で、死者が大勢出た 2026 年の大規模デモ直前。イランのインターネットが遮断される直前。そのしばらく後にアメリカがイランに対して本格的な爆撃を開始し、ホルモズ海峡の封鎖に至った。フーリエはインスタでの会話は許すが、実際再会することは躊躇っていて、その理由は分からないが、どうやらフーリエは僕に対して何らかの感情をまだ抱いていたような気もするが、再び会うことは許さないという、意味不明なポジションを取られてしまった。そして再び今僕は彼女の方角に向かって自転車で走っている。ただし、今回の状況の深刻さは今まで以上だ。今や彼女の国では戦争が繰り広げられている。イランは壊滅に至っている。現地通貨はゴミ同然、インフレは制御不能。彼女が僕に語った夢、それは翼を広げて僕のように世界を自由に飛び回るという空想。彼女が妹に電話で伝えた、適切な旅をするパートナーを見つけたという、軽い思いつき。いつの日か僕と一緒に旅をしてみたいという願望。そんな望みは時代の政治によって、八つ裂きにされてしまった。
しかし人生、希望を抱く他にない。オデッセイ号が可能性を積んで接近している。まるでジェームズ・ボンド映画のように、主人公はカスピ海の美女を二つの悪から救おうとしていた:戦争挑発者トランプ大統領と、邪道に国民の未来を賭けたイスラム革命防衛隊。イスラム共和国の覇権から無謀な救出作戦の微かな可能性が残っている。何故なら、イランのインターネットは遮断されているが、僕の仲間達が集中しているイラン南東部バロチスタン地方では、違法なスターリンク・ターミナルがたくさん密輸されていた。よって、僕はイランに残した友人たちと会話ができるのだ!僕は彼らとペルシア語で話した。彼らは僕に「皆安全だよ」と保証してくれて、フーリエも無事だということを確認した。
Julian:「アフガニスタンに来て俺と合流せよ!」
友人:「インシャラー!」(イスラム用語:神が許せば!)
僕はフーリエをイランから救出するあり得ない可能性を妄想していた。例え彼女がそれを拒否するとしても(彼女は当然拒否するでしょう。何故ならば彼女は本当のペルシア人で、国と民に背を向けて逃亡するような人ではない)その可能性をオプションとして彼女に与えることに真の意味がある。彼女の夢とポテンシャルは時代の不平によりズタズタにされてしまったが、それでもイラン国の外から彼女に向けて希望の手が伸びていることを示したかった。君は忘れらていないことを、知らせたかった。それをフーリエにペルシア語で伝えることを想像しながら、アフガニスタンへの長い道を辿った。その時に気付いたのだ:こうして言語を学ぶのだと。
知っている単語を一つ一つ繋げながら、ボロボロな文法でも相手が僕の感情と執念を理解できる文書を構成するのだと。そこで思い出した:こうやってロシア語もかつて学んだのだと。ユーラシアン・オデッセイで登場したまた別の女主人公、愛に陥って、裏切られたロシア人美女のナスタシャ・フィリポヴナに対する憎しみのあまりに導かれ、ロシア語を身に付けたことを思い出した。実に、イランとパキスタンの国境付近の砂漠を 2年前、ある夜自転車で走っていた時に練習したことを思い出した。ナスタシャはしばしば「私は女性だから〇〇」だと、性別を盾に好きなようにできるのだと、抜かしていた。また会うことがあれば、次のように返すことを想像した:「Какая женщина, блядь. Вы ШЛЮХА. Вот такая вы!!」(何が女性だ、このクソ女め!お前は淫乱女だ!お前はまさにそうだ!!)。
ナスタシャとは再会し、再び抱いたものの当然、こんな汚い言葉を彼女に口にすることは無かった。それでも憎しみにはロシア語の語彙力を上げる副作用が確かにあった。
そして再び、愛する女に伝えたい感情を、その子の母国語で伝える練習を僕は自転車に乗りながら想像していた:
بیا به مازایشاریف به مان. بعگئرئ پول از مان. و رویاهایت را به حقیقت تبدیل کن
(Mazar-i-Sharif に、我のいる所に来い。来て、我から金を受け取りなさい。そして、君の夢を叶えなさい)
そう、言語学習には様々な方法とトリックがあるが、それ以前に目的論上、本当に必要な理由が欠かせないのだと僕は思う。それが真の「欲」。愛に基づいた欲でもあれば、憎しみに基づいた欲でも良い。胸に抱いた重い感情を世界に向けて放り投げる強力な欲。それは僕の場合、オデッセイの道中ペルシアで愛に陥ってしまった、無罪な女性。

アフガニスタンへ
4月13日に国境を超えてアフガニスタンに入った。泥水が流れるパンジ川の南岸がアフガニスタン。国境に到着したのが午後4時で、ちょうど入国管理局がその日の業務を終わらせる直前だった。受け付けてくれた入国管理官はエアコンがガンガン効いた事務所へ僕を招き、翌日手続きを進める為一晩だけ国境のホテルに泊まるよう僕に指示した。彼はタリバンの一員。しかし、現在のタリバンはアメリカと 20年間にも渡る抵抗をしたタリバンとは違う。このタリバン入国管理官は公務員だ。よって、僕のことを非常に手厚くもてなしてくれて、問題なくアフガニスタンの国境で一晩泊まってから翌朝入国手続きを確かに進めてくれた。ビザ料金は 80米ドルで、発行に1時間くらいかかった。国境沿いの村はとても素朴で、タジキスタンと違って道路は埃に満ちていた。住民は皆シャルワー・カミーズという同じ服を着ている。道には女性は皆無だ。どうやらアフガニスタンはパキスタンに非常に似ていて、イスラム教のルールはイスラム教の法律「シャーリア」の形で形式化されていた。
国境沿いの村で今まで勉強したペルシア語を試してみたら、見事にコミュニケーションが取れた。ケバブの注文から、どの村人がハフェズなのか(ハフェズとは、イスラム教の寄宿学校マドラーサでコーランの暗記ができた者を指す。イスラム圏では最高の立ち位置を持つ者達)。しかし会話の始まりは弾むが、表面下の会話に入る言語力がない。まだまだペルシア語の勉強が必要だ。
次に向かった街はクゥンドゥーズ。結構な規模の街だ。ここで新鮮な豆から淹れたコーヒーを提供するカフェを見つけて、久しぶりに新鮮なコーヒーを飲んだ。店の経営者は若いアフガン人の「ヤーヤ」君。彼はインドで長期留学していたため、英語に加えてヒンディー語が喋れる、アフガニスタンの成り上がりのエリート。山奥村から集められたみずぼらしいタリバン員と異なり、ヤーヤ君は世界級の西洋教育をインドで受ける前に、アフガニスタンでイスラム教の勉強を済ませた者。僕は意図的に英語の会話を避けていたが、アフガニスタンに着いて二日目のこの日に、ヤーヤ君の招待を受けて隣の街ハーナバードまでドライブに行った。そこに美味しいレストランがあるという。また、都合が合えば後日アフガニスタン北東部の「バダクシャン」地方へ連れて行ってくれると約束した。
レストランでは中央アジアの典型的なピラフライスとケバブが出された。床に敷いた絨毯に座ってご飯を素手で食べていたら、部屋の角に座っていた部族員のアフガン人の手の食べ方が目に入って、興味津々になった。頭にターバンを巻いた 40代の部族員はピラフライスの中に隠れた骨をきれいに、一片の肉、骨髄、軟骨も残さずに食べた。西欧人として以前から素手で食べる人たちを見下していたのだが、この部族員の食べる姿をずっと見つめていたら、新たな尊敬感が湧いてきた。素手の片手で食べるには相当な技術と芸術があるのだと。西欧人がナイフとフォークをテーブルで器用に使うように、日本人が箸をまるで己の指の様に自由に操るように、食べ物を一切残さず右手で綺麗にピラフライスを食べ上げた部族員は絨毯から立ち上がり、僕の横を通ってサンダルを履いた。僕の視線を感じていたからか、その時に僕と目を合わせた。「とてもきれいに食べましたね」と彼を褒めたら、「ああ、食欲があったんだ」と、ヤーヤ君が部族員の早過ぎる Dari 語を理解できるように通訳してくれた。小さなコミュニケーションだが、新しいことを学んだ。また、レストランに物乞いの女の子が入ってきて、食事中の客に金をめぐりながら回っていった。アフガニスタンの物乞いは他国と比べてかなり強引で鬱陶しい。女の子は僕にも金をめぐったが、「後で、後で」とペルシア語で言って追い払ってやった。
僕は部族員の見本に従い、注文したピラフライスを綺麗に一片も残さず食べ終えた。食後、ヤーヤ君は町の広場の裏にあるモスクへ祈りに行くと言うので、外で待っていて欲しいと言った(1日に5回祈ることは「ナマズ」と呼ぶ)。モスクの外で立ち止まっていたら、多くのアフガン人に声を掛けられて、いつの間にか僕の周りに観衆が集まった。少しペルシア語が喋れる外国人は大変珍しいようだ。すると、観衆の後から視線を感じた。
観衆の5メートルほど後にある溝の前に、レストランで僕からお金をめぐった物乞い女の子が僕を見つめていた。観衆に囲まれた僕をじっと見つめていた彼女の純粋な好奇心が可愛かった。僕は食後に金を渡すという彼女への約束は忘れていなかった。「こっちにおいで」とペルシア語で叫んだ。
物乞いは僕の前に立った。観衆の前でお金をめぐらせた。
J:「じゃぁ、君はいくら欲しいんだい?」
物乞い:「えーーーー!?!?」汗汗
J:「さぁ、いくら欲しいのか口にし給え。」
女の子は相当戸惑っていた。普段はもらえる金をもらっているのだから、具体的にいくら欲しいのか聞かれると逆に困るのだろう。恥ずかしそうに女の子は「200アフガニ!」(500円)と言った。観衆は少女の大胆な値を聞いて、驚いた。
J:「どうしてたったの200アフガニが欲しいんだい?なぜ300じゃなくて200なんだい?」
一瞬、物乞いと観衆は黙ってじっとしていた。僕はポケットから持っていた現金を取り出して、200アフガニを女の子に手渡すと同時に、1000アフガニ札を手に取って持ち上げた。「ほら、1000アフガニもあったんだぞ!」と。
少女は200アフガニを受け取ったら有難うとも言わず直ぐに走って逃げた。「どういたしまして!」と笑いながら言ったら、観衆も笑い出して、辺りに良い気分が広がった。そしたら、ヤーヤ君がモスクから戻ってきた。
こういった些細なコミュニケーションを取るのはもちろん楽しいが、それ以上に僕のペルシア語の勉強と、その勉強の成果である異文化の人間同士のコミュニケーションを促進させ、人種、宗教、貧富を問わず、人間性を互いに共有する、貴重な機会なのである。
***
アフガニスタンの最初の一週目はこういった現地の人との短い、浅いコミュニケーションに辛うじて成功した。カフェを経営する若者達とアフガニスタンに来ている目的を伝える会話…トルコから強制送還された手作りアイスクリームの職人と、最近トリニダード&トバゴで入手したリアルカカオを分けあって食べたり… タクシー運転手と15 分間に渡る、300アフガニをめぐる口喧嘩… など。
自分の面倒を見れる程度のペルシア語は身に付いたみたいだ。好き嫌いを伝えながらの食物の注文や宿の交渉も完璧だ。しかし、それ以上のレベルのコミュニケーションを取るのに苦戦した。仲良くなったアフガン人と連絡先を交換しても、彼らが送ってくる音声メモの理解に手こずった(対面で話すと身振り手振りもあるので、如何にそのジェスチャーに頼っていたかを理解した)。
また、自転車でアフガニスタンを南に走行して、国の中心を占めるヒンドゥー・クッシ山脈に近づくと、霧のように濃い砂、埃と花粉の不快な空気に包まれ、体調を大きく崩してしまった。呼吸が気持ちよくできない。このままでは山を超えられそうにないと思い、タクシーに乗って首都カブールに向かった。
文頭に紹介した言語学習システムもタジキスタンを離れてから全然進めていなかった。どうもパソコンと向き合う時間がもったいなく感じてしまう。しかし地道な翻訳作業と勉強も同時に進行させないと、本レポートの主役である言語学習システムの効果が実証できない。問題だ。首都カブールに着いてから、道をフラフラ歩いて、つまらない、浅い会話をしてるだけで、停滞してしまっている。
そこで面白い任務が僕を訪れた。アメリカのアトランタで出会ったストリッパー「クレオ」と僕は毎日連絡を取っていて、大分関係が強まってきていた。彼女にアフガニスタンから何かプレゼントをしたいと言ったら、彼女は面白いものを提案した。それは「クッシ・オイル」。麻から圧搾したマッサージオイル。アフガニスタンなら質の良いものが手に入るはず。任務を受けて僕はある日の朝、カブール最大の市場へ自転車で向かった。ペルシア語を活用してクレオのために質の良いオイルを探し出してみせる。でもこの挑戦はそんなに難しくなく、簡単に市場の一番奥にあった店でクッシ・オイルを見つけた。
僕が滞在したカブールのホテルでは、一人の外国人女性が朝食エリアにいたので、声を掛けてみた。彼女は「ダイアナ」。ハンガリー人の旅人で、ブログを持っていて、結構なフォロワー数もいる。彼女はアフガニスタンなど中東のヤバい国でツアーを提供する商売している。一コマ$920で、アフガニスタンに興味があるけど自分で探索する勇気のない人たちにサービスを提供している。僕たちが出会った時、彼女はツアーを終わらせたばかりで、6コマ中4コマがキャンセルだったらしい(もちろん返金無し)。どうやら客の両親がアフガニスタンへの渡航は危険だから禁じたのと、イランとアメリカの間の戦争で飛行機が飛ばなかったからだという。ダイアナはアフガニスタン訪問3度目だが、ペルシア語は全く喋れない。それでもビジネスウーマンなので、色々現地のコネクションを持っていて、その夕方、アフガニスタンのツアーを手配する団体との集会に僕を招待してくれた。そこで純アフガニスタンの女性と話して、どういう感じの子達なのか少し把握できた。それ以外、アフガニスタンの女性と話す機会はこの旅では一切なかった。
かなりヤバい、アフガニスタンのツアー手配者達。これほどニッチ中のニッチ事業は無いだろう。
カブールでは5日間滞在して、つたないペルシア語を市場などで使って、それで精一杯だった。どうもペルシア語はそう簡単に短時間では伸ばせない。目に見えない天井にぶつかって、それ以上のレベルに到達できない。外に出てリアルな会話をしたいと思い、実に良い会話を始めることはできたものの、自分で始めた会話に全然ついていけないレベルに滞ったままだ。
カブール最終日に歴史的なIntercontinental ホテルに一泊泊まった。このホテルはイギリスの名門建築家が70年代に建てたのだが、タリバンに横領されてから時に凍結した状態だった。当然、よほどのリスクを好む外国人投資家以外、お金を注ぎ込むような環境はアフガニスタンにはない。カブールの西と東を見下ろす、戦略的な丘の上のスポットに建つ、お城のような場所。Intercontinental Hotelを支配する者は、全アフガニスタンを支配するとすら言われているスポット。このホテルを知った理由は、Guardian新聞の長い記事を2年前に読んだからだ。いつかの日か泊まってみたいと感じて、とうとうホテルに泊まる機会が僕の人生を訪れたのだ。そのことをホテルのレセプショニストにペルシア語で伝えたら、宿泊料を半額にしてくれた。
***
カブールから脱出を試みた。これ以上アフガニスタンの奥に入りたいとは思わなかった。どうしようもない空気汚染と街の汚さに呆れてしまった。料理も信じられないほどワンパターン過ぎる。ピラフライスとケバブ以外食べないようだ、この人たちは。彼らは道端で牛や山羊を屠殺して、その肉を埃まみれの空気に晒して干す。その様子を見ると余計嫌になった。タジキスタンへ戻ることにして、その前にヤーヤ君がいる北部の都市クンドゥーズまで長距離乗り合いタクシーの助手席に乗った。後ろには3人の男が座り、そのうち2人は武装したタリバンのムジャヒディーン(イスラム原理主義ゲリラ)だった。
真ん中に座った「ムハンマド」が、僕にまだ妻と子供がいないことをからかい出した。運転手が無意識の比較対象として使われた。運転手は僕より一歳年上で、2人の妻と9人の子供がいる。運転手は一晩中350kmドライブして、僕から20米ドル稼ぐ。
ムハンマドは、鬱陶しく何故イスラム教徒でないのかと僕に問い詰めた。信仰はプライベートなものだとペルシア語で返したが、言葉が理解できないのか、プライバシーの概念自体理解できないのか分からないが、僕の答えに満足せず、アラビア語でイスラムの宣言「カリマート」(自分がムスリムになると宣言するもの)をその場で唱えるよう、しつこく迫りました。「やりたくない」と、またも僕は奴を断った。発展途上国のイスラム教の国の者はこのようにやたら自分達の宗教を外国人に押し付けようとする習慣を持つ。他の乗客はこのやり取りを存分に楽しんでいた様子だったが、僕はもういい加減だと思い、攻めてやると決めた。
そこでムハンマドに奴はハフェズなのかどうか尋ねた(イスラム社会で最も高い地位の人物で、コーランを全て暗記している者のこと)。ムハンマドは誇らしげに自分は確かにハフェズであると宣言し、他の乗客たちは奴に敬意を示した。
僕は奴にこう言った:
「ならばスーラ8、24節を今僕に読んでください」と。この節は僕の個人的なお気に入りで、神アラー以外、人と心の間に立ち入り干渉することができないという内容で、この状況においてとても適当な節だ。
ムハンマド:「あなたが読んでください!」
ジュリアン:「いいや、お前が読んでくれよ。俺はハフェズではない。お前がハフェズだろう。」
ムハンマド:「いいえ、いいえ、あなたが読んでください!」
ジュリアン:「まさか、忘れたのか?」

ムハンマドの恥を救うために、乗客の一人がすぐにその節をグーグルで調べ、スマホを読みながら朗読をしました。この一件はタリバンのムハンマド君にとって非常に恥ずかしいものだった。彼は自分の町に着くとすぐにタクシーを降りた。最後に助手席の窓に来て手を中に差し込んで僕と握手をした。残った乗客全員がムハンマドがいなくなったことにほっと息をつきました。😆
しかし、この出来事は多くの意味で興味深いものだった。何故なら、イスラム教を振興する者らが如何に中身が空っぽかを証明したからです。ハフェズとはコーランの誠実さを保証するための、神の言葉の守護者としての役割をイスラム社会で果たしている。そんなハフェズがコーランを忘れてしまっていたし、タクシーの運転手は親切だったものの、無理をしてでも9人の子供と2人の妻を養うことが何故か彼らの文化では自慢のように思われているようです。
2年前、フーリエと一緒にイラン南部のバロチスタン地方で出会った、4人の妻と25人の子供を持つ男のことを思い出した。確か、同じくらいの数のラクダも彼は持っていた。イスラムの文化では女性は実質上、繁殖のための家畜に近い存在であり、子供はただの数字に過ぎないとき、彼らが自分達自身をどう見ているのか疑問に思います。フーリエもかつてイスラム社会の男尊女卑を一女性として嘆いていたことを思い出した。「女の体の事にしか興味を持たないこと。本当に残念。それ以上に、もっともっと良い物があるのに…」と。
そんなに子供を多く産んでも、子供たちの名前と性格をどうやって覚えるのだろうか?もしも子供の内一人が自爆テロでシャヘード(殉教)になったら、如何に偉大な誇りに思うだろうか?(実の現在のタリバン最高責任者の息子一人が自爆テロで殉教したことが、特に顕著なディテールだ)
この一件はまた、同じイランのバロチスタン地方で出会った別の男との感情的な会話を思い出させる機会にもなりました。彼の父親は4人の妻(宗教で認められた最大数、それに加え所有する奴隷女性)を持っていました。彼は父親を憎み、重婚に強く反対しているとある夜旅人の僕に打ち明けてくれた。父親の女性への欲望が彼の実の母をどれほど苦しめたか… これは僕が今まで聞いた話の中で、一夫多妻制についての最も重要な、その成果物である子供の観点であり、一生忘れることのない体験談だった。彼は子供として一夫多妻制が何を意味するか肌奥から知り、男となり一夫一婦制を選び、それが何を意味するかを知った上、自らその道を選んだ者の本当の笑顔で、妻は一人だけで十分だと、眼から涙を流しながら僕に語ってくれた。
しかし、彼のゲストルームで一泊泊まった翌朝、旅立つ僕を見送るためにハーレム(イスラム家庭の、女性しか立ち入れない区域)から彼の家庭の女性達が全員出てきて、旅人に挨拶をすると同時に一夫多妻制の絶対的な魅力を僕に示した。それは、無数の似たような顔の別嬪達。中々イスラム社会では見えない、彼らの女性の美。それは抗し難い美で、イスラム教徒の男達がどうして嫉妬深く女性を自分のために溜め込むのか、その一瞬で十分、理解できた。
バダクシャン地方へ
鬱陶しいタリバンの戦闘員達に恥を知らせたものの、アフガニスタンの埃と砂に敗れてタクシーでクンドゥーズ市に戻った。この国は自転車の旅に全く適していない。道路の状態も最悪で、埃まみれで呼吸困難が10日間も続いていた。仲良くなったヤーヤ君が営むコーヒー屋を再び訪れた。深夜1時だったが、店の扉を開けてくれて、僕を中に招いて泊めてくれた。ヤーヤ君は上の部屋で寝ていたが、僕が来たので起きて歓迎してくれた。翌朝、彼が約束したバダクシャン地方へ行こうと。
バダクシャンとはアフガニスタンの最も北東にある巨大なパミール山脈が聳え立つ広い地域。タジキスタン東部も、中国との国境までバダクシャンと呼ばれる。クンドゥーズから行くには車が必要で、ヤーヤ君は車を持つ友人を一人呼んで一緒に行くように手配した。アフガン人はイラン人と同様にトヨタ自動車を非常に高評価していて、せっかくなので僕も1時間くらいアフガニスタンの山奥の道を運転してみた。道路の状態はひどく、さすがのプリウスもボロボロになりそうだったが、6時間走ってようやくBaharakという街に着いた。Baharakではヤーヤ君の別の友人が僕たちを泊めてくれた。

Baharakに近づいて気付いたのは、アフガニスタンの都会があるエリアと比べて空気が断然に綺麗だった。美味しい空気と、四方八方に聳え立つ中央アジアの巨大な山と、その上に積もった雪を眺めたら久しぶりに幸福と安静感を感じた。良かった。今までのアフガニスタンの経験はかなりネガティブで、嫌になっていた。空気も汚いし、人々は貧しく、鬱陶しくイスラムを押し付けようとしてくるため、ウザかった。ようやく真のアフガニスタンにたどり着いたような感覚だった。走行中にヤーヤ君が叫んだ:「見て!あそこにアヘンの花が咲いているよ!」と、川沿いの綺麗な場所に植えられた小さなアヘン畑を車の窓から指差した。
Baharakの家に到着したのは夕日が沈む直前で、早速暗くなる前に僕たちは出かけた。夕日が沈んだ頃、河岸の草原にペルシア絨毯を地面に敷いて、軽食をした。近くから強い香りがしたので、香りを吹かしていた若者たちに声をかけて、地元の「緑」の味を試してみた。
絨毯の上でDari語で会話する仲間たちの話についていけなかったのもあるが、狭い絨毯の上に一緒に座ってもしょうがないし、勿体無いと感じたので、草原を独りで歩き出して、のどかで神秘的な周りの景色を取り入れた。空が暗くなり始めたら、「緑」の効果が効いてきた。絨毯の上で会話していた仲間達に戻った。僕は失敗したのだ。本当にペルシア語を素早く習得できるならば、彼らと一緒に会話をしていた。しかし世の中はそう甘くないし、物事は思い通りにいかないものだ。すると、僕らを泊めてくれるヤーヤ君の友人は会話中に急に絨毯から立ち上がって、川の上流に向かってナマズの祈りを始めた。それは完全に自然な動作と出来事で、仲間たちは何の反応もせず会話を続けた。僕はこの出来事を見つめながら、心が照らされた。これが真のイスラムの姿なのだと。

今まで世界中で多くのイスラム教徒の仲間たちと時間を過ごしてきたが、如何なることを中断して、神に祈るような人は見たことがなかった。それは、彼らは神を優先していなかったからだ。その事実がこの瞬間、明白に見えた。
透けて見える綺麗な水が流れる川横で仲間たちとナマズをしている。僕はヤーヤ君に聞いてみた:「アフガニスタンに来て、初めて見た、真のイスラムを。君たちは会話中でも、ナマズを始めるのかい?」
ヤーヤ:「すべての物にはその適切な時間があります。そして、アラーに祈る時が来たら、その時間を優先するべきだと僕たちは信じています。」
J:「アフガニスタンの過酷さを経験した俺にとって、こうやって君たちとバダクシャンに来て時間を過ごすと、本物のイスラム教がようやく見えてきたように感じるよ。次のナマズ、ご一緒させてもらってもいいかい?」
ヤーヤ:「是非一緒に祈りましょう。光栄です。」
僕はすぐそこに流れている、溶けた雪から流れる透き通った綺麗な水を求めて、岸の浅い箇所の岩の上に蹲み込んで、手足と顔を洗い始めた。ナマズを行う際、神に祈る時は心だけでなく、体を清める「ウドゥ」の儀式がある。ウドゥでは使用した体の開口部を洗う。眼、鼻の穴、耳、口。小便をしたならば、ちんこの穴を洗う。肛門も同じ条件で清めるのが基本だ。ウドゥを終えたら、絨毯の上でナマズを開始する準備ができたヤーヤ君の隣に立って、彼の祈祷に従って体の動作の真似をした。冷たい川水で洗った顔と手足はバダクシャンの谷間を吹く穏やかで綺麗な風に包まれた。素晴らしい発想を導くような、「Cold winds of inspiration」だ。アフガニスタンに来て苦戦していた僕にとって最も必要だった、綺麗な空気。
ヤーヤ君はマドラーサにてアラビア語でコーランを読む練習を経たため、彼が唱える言葉は真似できない。しかし僕はコーランを英語で読んだことがあるので、趣旨は大体理解していた。彼の動作を真似して額を地面につけて神アラーに感謝を心で伝えた。ナマズを終える寸前に、ヤーヤ君は「アスタグフリーラー、アスタグフリーラー」と静かに唱えた。僕はこの言葉を聞いたことがある、というか、そう言われたことがあった。何か悪いことをした時に、イスラム教徒に言われた。女の子の尻を叩いた時に言われたのかな。何度も「アスタグフリーラー」と言われたので覚えていないが、ネガティブな印象の言葉だ。彼らの宗教で許されないことをすると、「アスタグフリーラー」と彼らは言うので、結構嫌いな言葉だった。ヤーヤ君に聞いてみた:
J:「イスラム教徒じゃない僕と一緒にナマズの祈りをしたから、アスタグフリーラーと言ったのかい?」
ヤーヤ:「全然違うよ!アスタグフリーラーの意味は、『神よお許しください』という意味だから、通常のナマズで言う、ごく普通の言葉だよ!!」
J:「なるほど。いや、正直に言うと、今まで関わってきたイスラム教徒の人たちの多くは、結構嫌な印象を俺に与えていたんだ。俺たち西洋人にとってニュアンスも理解できないアラビア語をいきなり使ったり、宗教を押し付けてきたり、道端の路上に絨毯を敷いて大勢でナマズをするという、西洋社会では完全に不適切なことをするイスラム教徒たちが結構気に入らなかったんだ、実は。」
ヤーヤ:「うん、僕たちも彼らのことは受け入れていないよ。彼らのことを『アメリカン・ムスリム』と皮肉って呼ぶんだww。」
J:「そうだよな。西洋社会はイスラム教徒にとって全く合わないような環境だ。豚肉もあるし、酒もあるし、女も体を露出し歩き回っている。そんな世界にわざわざよそから来てイスラム教に従おうとしても、満足できる訳がない。それでも、欧米に住むイスラム教徒は懲りずに自分たちのアイデンティティーであるイスラム教を無理矢理主張しようとする。一方、左寄りの西洋社会はこの傾向を煽り、何の文化的な教養も持たない『Woke』連中が『ダイバシティー』だと許容を押し付けるが、それが衝突を産むことは後知恵として見え見えだった。だが本来は、イスラム教徒はバダクシャンのような静かで清らかな環境で、ごくシンプルな生活を送ることが、最も神聖に近づく生き方だ。しかし経済的な目的を持ってヨーロッパに来て、無理矢理イスラム教を不適切な環境に持ち込もうとしている。」
ヤーヤ:「僕も同じ考えを持っている。でもさらに言えば、ヨーロッパにイスラム教徒が増加する一方、従来イスラム教の国に欧米社会発祥の資本主義が広がって来ていて、僕たちの本来の文化が着実に破壊されていることを同様に非常に問題視しているんだ。」
J:「そうか。同じ問題の、両面が見えてくるような気がするね。」
ヤーヤ:「本当にそうだね。」
もしかしたら全世界グローバル化の実験には限界があったのかも知れない。僕のペルシア語のように、目に見えない天井があるのかも知れない。それでも、僕にとってこのバダクシャンへの短い遠足は、アフガニスタンの旅を救う時間となったのだ。何故ならば、このどうしようもないような山奥で真のイスラム教が見えたから。こうやってゆっくりと仲間たちと時間を過ごして、お茶を飲んで、ピクニックをするような、平和な宗教がイスラム教の本来の美しい姿が発揮される環境。しかし、グローバル化と地政学によって頭と心が狂ってしまったイスラム教徒は、どこか遠く彼方で聖戦を行って、殉教者となってこの世を去ってゆく。それは実に残念なこと。本当のイスラム教を知った上、殉教を通して世を去って行ったのか、それとも犬死にしたのだろうか。その可能性を鑑みることすら、今のイスラム教社会では考えられない。それは何故なら皆、殉教したシャヘードは英雄だからだ。クリティカル・シンキングの無い宗教は恐ろしい怪物である。その化け物はこのアフガニスタンの旅で見たが、同時に、バダクシャンでその反面である宗教の純粋さが見えたから、この遠足には価値があったんだ。
これもまた、仕事のために欧米に来て、住んで、家族を始めるイスラム教徒への忠告にもなる。例えば一世がイスラム教の国で育ち、後から移民として欧米に来るのは良いが、その子供達は二世としてイスラム教徒でありながら、欧米社会以外の文化を知らないまま育つ。多種多様性の甘い標語を信じるならば、表面から明らかな問題には見えないが、真のイスラムの環境を知ることなくイスラム教徒として西洋社会に生きるのは矛盾に等しいと思う。一人、僕が知っているイスラム教の女性の話を共有したい。彼女は両親がイスラム教徒の移民で、ロンドンで育った子。彼女は正に別嬪の美女。しかし僕と同い年で結婚もしていないし、子供もいない。彼女の状況はこういったイスラム教社会では、あり得ないことだ。本来ならば幼いうちに結婚相手を両親が従兄弟などに手配していただろうに、彼女は冷たい西欧社会の恋愛サイトを彷徨いながら独りのままでいる。頗る残念で、イスラム教と西洋社会の非互換性を示す例だ。彼女と話すと、まだまだ結婚相手が見つかることに「インシャラー」と言うが、決して希望を導く言葉ではない。
そして僕を訪れたバダクシャンでの美しい経験。
僕が受けたCold winds of inspiration。
神を崇めた人生。ナマズを中心に構築された日常。取り入れてみようではないか。
結論
残念ながら、言語学習システムの評価はできなかったです。電話で話す相手もいなくなってしまったし、フーリエとペルシア語で会話をする機会は今回は無かったです。また、会話ができるかどうかは、アフガニスタンで試した中、そんなにできなかったです。しかし、それ以外の発見は豊富にありました。ペルシア語圏の文化とイスラム教との密接な関係、それに加え、番外編で紹介するデライトも発見しました。 個人的にペルシア語の勉強は続けるつもりです。もしかしたら後からこの旅の成果が分かるのかも知れない。それだけ自然なもので、試験などで評価できない経験をしたことは間違いないです。
番外編
バダクシャンに着いたその夜、ヤーヤ君よりも早く朝の4時半に起きて、ウドゥの儀式を独自で行い、周りに仲間達が寝ている中、絨毯をメッカに向けて敷いて、ナマズを行った。言語学習をしに来たのだが、意外にもイスラム教の良い部分を吸収することになった。ペルシア語もある程度は使えるようになって、日本に帰国したら例の教科書を復習して、さらにレベルアップしたら、言語学習に成功するかも知れない。言語学習には始点と終点は無く、常に進行するもの。
皆眼が覚めたら、バダクシャンでの買い物をしにバザールへ向かった。このアフガニスタンの角では他の地方では手に入らないものが売られている。それは宝石、アヘンとシラジートという、山の「血」。
シラジートは岩の「樹脂」で、ヒマラヤ山脈や、バダクシャンの様な山脈が立つところでしか見つからないとされる、幻のサプリメント。ヤーヤ君によると、男性ホルモンを活性化する効果と、男性の精力を高めるとされる。使い方は、温かい牛乳やお茶に小さなかけらを溶かして1日に1回飲み、2週間もすれば効果が分かると。ネットで検索してみたら、色々な書き込みがあって、たくさんの商品を見つけたが、生の純粋なシラジートは中々手に入り難いようです。近年では若い男性はパワーを求めてテストステロンを注射で体に取り入れるくらいなので、シラジートのような自然な物質を取り入れた方が安全ではないかと考えます。
他にバダクシャンで有名なのはLapis Lazuliという、青色の宝石。光沢はないが、鮮やかな青色が目立ちます。僕はBaharakの市場で色々な宝石を買いましたが、飛行機で飛ぶ際に関税に引っかかり、購入歴を証明できなかったため徴収されてしまいました。それでもLapis Lazuliをジュエリーにしたのは持ち出すことができたので、ストリッパーのクレオにプレゼントしたいと思います。そうすれば少なくとも彼女の商売に貢献できるでしょう。
次はアヘンについて。バダクシャンはアヘンの生産地として有名で、せっかくなので市場に探しに行きました。とはいえ、もちろん違法なので、秘密経路で入手しました。イランではバーフルという容器でアヘンに熱を加えてその蒸気を吸いましたが、バダクシャンではお茶に淹れて飲みます。ちょうどアフガニスタンの空気汚染のせいで喉が痛んでいて、ヤーヤ君はアヘンをお茶に入れて飲むと回復すると教えてくれたので、入手したアヘンをランチのピラフライス後にお茶で飲みました。お茶にして飲むのは初めてだったので結構大量に飲んだらエネルギーが湧いてくると同時に、身体中に深い安静感が広まりました。クンドゥーズへの帰り道はずっと会話が弾み、仲間達は僕がかなりアヘンの効果が効きすぎているように思ったようで、心配していました。途中、車を止めて欲しいと言って、道端で嘔吐もしましたが、すぐに回復しました。結構な量のアヘンを入手したので、残りはお茶を沸かして1.5lのペットボトルにアヘンと混ぜて入れて、それを数日間飲み続けました。楽しかったですが、結構乱れた数日で、最後の最後、飛行機に乗る前の夜に残りのアヘン茶を頑張って飲んだら、なんと目覚まし時計を設定するのを忘れてしまい、出発時間の1時間前に起きて、飛行機に乗り遅れるところでした。
最後にナマズについて。アフガニスタンを離れてから2週間以上経ちますが、まだまだ日5回のナマズを続けています。何故かと言うと、ナマズを中心に構築した日に気に入ってしまったからです。今までの僕の人生にはそんな規則は無かったので、バダクシャンで導かれてから大きく生活パターンが変わりました。具体的に語ると、ナマズを日に5回もできる人生への「余裕」に目覚めたとも言えます。
現世に追われ神へ祈る時間の余裕が無いイスラム教徒もいます。そういう者は金曜日(ジュンマーと言い、休みの日を示します。休みの日はユダヤ教にもあり、土曜日の「サバス」で、キリスト教は日曜日)のみナマズを行います。よって、僕がナマズを始めた理由は、自分への余裕を持つという、重要な意味もあります。その効果はまだまだ分からないですが、調査のためにアフガニスタンを訪問し、最高のお土産を頂いたと思っています。
以上
