アユールヴェダ、東洋哲学について

インドという国は東洋文化の発祥地と呼んでも過言ではないでしょう。仏教、ヒンドゥー教、そしてあまり一般的には知られていないが、同等に歴史のある宗教のジャイナ教等、全てインドから生まれた信仰です。現在のインド、パキスタン、ネパール、ブータン、バングラデッシュ、すなわちヒマラヤ山脈に囲われた半島大陸全体は古く昔から「バハーラット」と呼ばれていた。宗教と定義して良いのか、それとも哲学なのかは分からないですが、彼らの食文化や考え方、生活標準は異次元と言えるほど独特で、我々にとって多くの学ぶ事があるように考えます。何故ならば、インド人達の幼稚と言えるほど明るく豊かな性格と、当地の過酷な経済と自然環境でさえ削ぐことのできない彼らのエネルギーの源は、彼らの文化にあると思われるからです。
「アユールヴェダ」とはバハーラットの医療法と認識されています。しかし、我々の西洋医学に基づいた「医療」の定義と彼らの「医療」は原点から大いに異なります。西洋医学では分子科学に基づき、人間の体を機械のように見て扱う傾向があります。一方、アユールヴェダとは人間をより包括的に捉えて、バハーラットに生まれた宗教概念との結合と調和を目指します。それが彼らの「医療」に近いでしょう。
一点、但し書きとして断っておきたいことは、インド人達は西洋医学を否定しておらず、実にドクターになることが彼らにとって最大のステータスです。よって、頭に入れておくことは、西洋医学とアユールヴェダとは排他的な関係ではなく、諸派統合的に同時に存在しているということです。逆に、最近西洋医学でブームとなっているメンタルヘルス系の分野(マインドフルネス、ヨガや瞑想など)がより重要視されていることは、むしろ、西洋人の健康に対する概念がより東に目を向け始めていると言えます。体は機械ではないとようやく理解し始めたのでしょう。
では、まずアユールヴェダの上にある概念の「ヨガ」(一般的なストレッチ・ヨガとは異なりヨガの本当の意味は、宇宙と心身の統合を教えるヒンドゥー教の宗教哲学)の世界では、人間には脊柱に沿った7つの「チャクラ」(7か所存在するとされる心的霊的な力の根源部位)があるとされます。その内の第6チャクラは、額の中心にある「第三の目」(アギュナ、 Ajna とサンスクリト語で呼びます)で、ここで紹介するサンダルウッドの粉はその第三の目を影響するとされます。
第三の目は人間の集中力を支配すると言われています。そして集中力の度合いは「陰と陽」の二元性に左右されます。陰とは、その人の怒りを指します。例えば、人生のあらゆる物事が自分の期待に沿わない、思うように行かない、そんな場合に感じるストレスは陰の過多を促進させます。その余分な陰のバランスを取るには様々な方法があり、瞑想もあれば、ガンジス川で身体と心を洗い流すことで陽を加えることも可能ですが、手っ取り早くて便利なサンダルウッドの粉で大きな陽の効果を得ることができると言われています。このため、インドでは様々な宗教的儀式にサンダルウッドが必ず登場します。線香として燃やすことで、人間の集中力を増幅させるとアユールヴェダの実務家より説明を受けました。
これだけ聞いたら胡散臭い話だと感じるかも知れませんが、現代の我々の生活習慣で集中力を高めるニーズがあることは誰もが認める事実 でしょう。頭のスイッチを切り替えられるという感覚で捉えると、サンダルウッドを燃やすことであろうが、瞑想であろうが、どちらも正解といえるでしょう。テレビ、スマホ、SNSなどは人間の集中力を奪う傾向があります。これらは東洋哲学で一種の「幻覚」として定義されており、現世のあらゆる幻覚から集中力を取り戻す対策としてサンダルウッドは有効で、今なら尚更効果的です。但し、神秘的で落ち着かせてくれる優しい香りが何千年も用いられてきたという、サンダルウッドの効果を裏付ける東洋文化をある程度理解し、その合理性を受け入れた上での使用じゃないと、サンダルウッドで元は取れません。
サンダルウッドの粉を受け皿の上に山の形にして、着火して炎を消すと、残火が数分間くすぶり続けます。部屋をこの煙で燻蒸すると、いかなる場面でも集中力を自分でコントロールして高めることが可能になるという効果があります。瞑想をするにも、勉強や単純に仕事や作業をするにしても、サンダルウッドの煙が漂う空間は、人間の日々の陰を少し陽にし易くします。
※(ちなみに本文はサンダルウッドが煙る個室で書きました。1週間ほどこのサンダルウッドを燃やしながら集中してみました結果、確かにムードを切り替えるのに有効だと思い、その力を利用するようになりました。しかしそれはサンダルウッドの効用を裏付ける思考を僕が時間をかけて読書をして、勉強して、ある程度知った上での成功で、それを知らずに使用しても効果があるとは思えません。)
次に紹介したいのは、ローズ・ウォーター(バラ水)、バラの花びらを水蒸気蒸留して作られた液体です。
バラ水はインドで様々な使用方法があります。アユールヴェダの実務家によると、寝る前に一滴眼の玉に落とすと、朝起きるときに目が爽快に感じる他、顔に塗ることで肌が一層と光沢を持つようになると述べていました。
実験として片目だけにバラ水を落としてから寝たら、目が覚めたら確かにバラ水を落とした方の眼は2日間、スッキリとした感覚を感じ取りました。バラ水は眼に非常に優しく、ツーンともしないし、化学製品には再現できない落ち着く香りがあるおかげで全く抵抗はありません。
顔面に塗る場合は、取り皿にサンダルウッドを少量、牛乳、ターメリック(微量)とバラ水をよくかき混ぜてから顔面に塗り、溶液が乾いたら(5〜10分程度)水で洗い流します。
また、バラ水を水に数滴入れてそのまま飲むと消化機能が良くなるとも述べていました。
この地域(ペルシアとインドの間の西アジアから南アジア)でバラ水は何千年も愛用されていて、アユールヴェダでは欠かせない材料の一つです。また、甘い料理にも利用されます。例えば、ヨーグルトに数滴入れると花々しい香りが立ちます。とても繊細な食材なため、最後の最後に加え、もちろん火は通しません。
バラは第4チャクラ「心のチャクラ」に非常に重要です。このチャクラは「アナハタ」と呼ばれ、主に感情を扱うチャクラです。サンスクリト語で「純粋」または「無傷」と訳します。アナハタは「愛情」、「恐怖」、「嫌悪」の3つの特性をコントロールし、人生の状況に応じてそれぞれが入れ替わって際立ちます。例えば、愛情を強く感じている時は、恐怖や嫌悪感は全く感じませんが、完全に無くなった訳ではありません。その人のその時の状況により、嫌悪が際立ったり、恐怖が際立ったりします。それぞれの特性は常に表裏に存在し合い、全体のバランスを維持します。そのバランスが崩れてしまうと、チャクラが「詰まる」現象が起きてしまい、他人及び社会・世界との健全な関係を構築できなかったり、または保てなくなったりしてしまいます。よって、アユールヴェダ法で第4チャクラのバランスを失ってはならないですし、その反面、上手く扱えば人間が持つ意思のエネルギーとそのエネルギーの方向性をコントロールできる可能性もあります。第 4 チャクラの影響下では、想像と夢はそれぞれ未来像、そして「決意」として形を取るとされます。
ここで一点書き留めておきたいことは、東洋思考ではいかなる感情、特に過剰な情動は悪質と捉えられています。ここで感情と意図を区別します。
1)感情に基づいた行為 (Raja-guna)
2)情熱的に行う行為。(Sattva-guna)
両方とも英語ではPassionと訳しますが、この二つは大きく異なります。ヒンドゥー教の聖書「バガヴァド・ギータ」には、神クリシュナと主人公アルジュナが、クルクセトラ決戦の両軍の間を共に歩きながら交わした会話が記録されています。そこに神クリシュナが様々な道徳をアルジュナに解き明かして、この感情の違いを明白にしました。
1)活動とその結果に愛着を持ち、自らに利する結果を渇望し、常に妬み深く不純で、苦楽に左右される活動者は激情の様式に位置すると言われる。
2)徳、激情、無知の物質自然の三様式に囚われること無く、偽我意識を持たず、大きな決意と熱意を持ち、成功失敗に左右されずに義務を遂行する者は徳の様式の行為者と言われる。
つまりは、精神の調和を常に念頭に、全ての行為(カルマと言います)の意図を浄化することがヒンドゥー教の教えだと解釈しております。人間は己の感情に抗いがたく、動機が過剰な愛情、恐怖や嫌悪に囚われてしまうと、それは激情の様式(mode of passion)の位置にあり、徳の様式 (mode of goodness)より下等とされます。激情の様式ばかりの行為で生きていると、終わりの無い死後の生まれ変わりにより、永久に現世の悲惨から抜け出せないというのが、ヒンドゥー教の死生観です。逆に徳の様式に基づいた行為は良いカルマの蓄積に貢献し、現世の悲惨から逃れ死に帰結し、あるいは涅槃に至り、ようやく生死の果てしない輪廻から解放されて、神の元に帰るということです。
従って、バラ水はもちろん、あらゆる神聖な物は徳の様式にあるとされる一方、例として過剰な性欲をもたらす玉ネギや反射神経を鈍くさせるニンニクは激情の様式(または無知の様式、これは後ほど説明します)にある物だとされます。
アユールヴェダの原則は、様々な食品とその摂取方法の規範となります。ある日、インドの警察官に「インド料理はどう思う?」と質問されました。僕の答えは、
「インド料理とは大変奥深く、インド料理の裏にあるヒンドゥー教の思想を理解していないと、漠然と食べて美味しいとか不味いとか表面的な味の評価だけに留まり、インド料理の良さが分かりません。」
2024年4月から僕はPure Vegという、いわゆるヒンドゥーダイエットに従っています。(ここで言うダイエットとは、痩せる太るという体重の増減に焦点をあてたものではなく、健康的になるための食事のことです。)この食卓には肉や魚は一切入らないし、更には玉ねぎとニンニクも入りません。しかしヴィーガンではなく、乳製品に関しては、チーズやチャイ茶に入れる牛乳など、十分に取り入れました。
まず、ヒンドゥー教の聖書に位置付けられる「Bhagavad Gita」には食べ物とその性質について記載があり、食材は大きく分けて三種類に分類されます。
- サットヴィック(バランスのとれた、純粋で、静謐な食べ物)
これは、いわゆる、徳の様式の食材です。食べ物とは味わうものではなく、必要な栄養分を綺麗に、新鮮に、他の生物に害を与えず体に蓄える為にあるという考え方。瞑想センターや修道院で僧侶に提供される食事は、完全にサットヴィックです。味が薄く、物足りなく、食べる楽しみはほとんど無いです。重要なのは、そのような食べ物は心身を落ち着かせ、刺激を求める欲求を和らげるのに役立つということです。新鮮な食べ物だけがサットヴィックとみなされます。調理は最小限に抑えられます。食材を加熱しすぎたり、長時間置いておくと、活力が失われ、感覚が麻痺してしまいます。
例:米、穀物、新鮮な牛乳や乳製品、豆類、果物、種子
- ラジャシック(風味豊かで刺激的な食べ物)
これは激情様式の食べものです。身体と心を過剰に活性化させてしまう食べ物で、怒りやすくなったり、興奮させる効果があると言われます。味が濃いことが特徴で、いわゆる「美味しい」食べ物を指します。また、過剰な味付けとスパイスも食べ物をラジャシックにさせます。特にルールではなく、例え食材がサットヴィックであっても加工や調理法に「過剰」という言葉が当てはまる場合に用いられます。
食材例:揚げ物、クリーム、チョコレート、唐辛子、生姜、ジャム
- タマシック(生き物に害を与えることで得られた食べ物)
無知様式の食べ物で、体を重くさせ、脳を鈍化させるとされます。体に能動的に有害な食材、または他の生物に危害を加えて得られた食品を指します。脳と体に過剰な効果をもたらし、消化機能に大きな負担をかけ、食後の疲れをもたらします。食後に眠く感じる時は、おそらくタマシックな食事をしたせいだと思われます。また、生命力が失われた古い食品は、タマシック部類に含まれます。つまり、ジャンクフードとファストフードが当てはまります。更には缶詰など非常食、冷凍食品、化学調味料、タバコ、麻薬やアルコールなども無知の様式に当てはまります。
例:肉、魚、ニンニク、玉ねぎ、タバコ、アルコール、薬物、缶詰、冷凍食品、ジャンクフード、人工調味料、白砂糖
バガヴァド・ギータは、神に捧げられたもの以外は何も食べない方が良いと教えています。ニンニクとタマネギは、植物学的には野菜ですが、宗教的に精進の部類に属さず、伝統的に神に捧げません。その理由は、これら食材が体にもたらす効能にあります。ニンニクは脳を鈍化させてしまう性質があると言われており、西洋では、1950年代という早い時期に、ニンニクが反射神経を3倍も鈍らせるという研究結果が出ていました。軍のパイロットは、飛行の72時間前からニンニクを摂取しないよう指導されていたと言われていたようです。軍事飛行機のパイロットにはフライト前の72時間はニンニクを食べない方が良いと言われていたようです。一方、タマネギは性欲を過剰に刺激すると言われています。アユールヴェダでは、精神状態や肉体状態を強く変化させる物質はすべてタマス的なもの、つまり濁った、重い、無知と関連付けられるものとされています。
とはいえ、アユールヴェダは厳格に禁止令を下しているわけではありません。むしろ、ニーズに合わせてバランスを取るための柔軟なシステムを提供しています。適切な知識があれば、体質、ライフスタイル、環境、職業に合わせて食生活を調整することができます。例えば、僧侶はサットヴィックな食品(純粋で軽く、静謐な食品)のみを摂取すべきでしょう。一方、肉体労働者は活動を続けるために活力を与えるラジャスな食品を必要とする一方で、健康を維持するためにアルコールなどのタマス的な摂取を最小限に抑える必要があるかもしれません。アスリートは、一時的なパフォーマンス向上のために、スポーツドリンクなどのタマス的な要素を取り入れる必要があるかもしれません。アユールヴェダは教義ではなく、識別力です。

これらのカテゴリーは、僕たちがより意識的に食べ物と関わるためのガイドラインとなります。考えもせずに美味しいものだけを食べるのは無知様式の行為です。真のアユールヴェダの知恵は、それぞれの食材の性質を理解し、単に味や栄養学の「科学者」の言うなりになるのではなく、意図的に食べ物を自由に使うことにあります。
現代の日本ではタマシックを避けることは非常に難しいです。日本のように乳製品の種類と鮮度と質が乏しい国ではサットヴィックだけで必要な栄養分を確保できないのも現実です。規制により生乳は全て低温殺菌されてしまっていますが、インドでは水牛のミルクや牛乳をそのまま使用し、生きた有益な細菌もできる限り含まれた状態で栄養分を保存します。日本では乳製品が不足している分、豆腐や新鮮な魚が豊富にあります。アユールヴェダは、旧バハーラット(インド国土)の境界外での食生活をどのように管理するかについて、僕たちに考えさせます。僕自身の解釈では、新鮮な魚はタマス的ではなくラジャス的なものに分類することにしました。その違いは食材の生命力にあります。新鮮な魚にはプラーナ、つまり生命力が含まれていますが、古くて生命力のない肉や魚は死んでおり、真にタマス的とみなします。
この違いは寿司を通して見ると容易に理解できます。良質な市場の天然魚を使い、誠実な職人が握る新鮮な寿司は、刺激的でありながら清浄で活力に満ちた、ラジャスな性質を持ちます。一方、冷凍魚や低品質の養殖魚で作られ、添加物や保存料がたっぷり含まれた寿司は、まさにタマス的、無知様式な性質を持ちます。きちんとした板前により提供される新鮮な寿司と、大量生産の回転寿司を同一視するのは、単なる誤解ではなく、無知な教義に基づく行為です。僕たちは、騙されやすい味覚や目だけに頼るのではなく、ちゃんと頭を使って、自分自身で考えなければなりません。アユールヴェダを説くと主張する教師や金儲け屋を盲目的に信用すべきではありません。
結局のところ、真のインド料理は必ず新鮮な野菜が中心に据えられます。これは宗教的なタブーだけでなく、新鮮さ、活力、純粋さがアユールヴェダの哲学の根幹を成す重要な要素だからです。これらの価値観は、インドに由来する世界観に根ざしています。インドでは、人生は物質的な側面だけでなく、目に見える力と目に見えない力のバランスとして捉えられており、紛れもなくインド的です。アユールヴェダもまた、起源と精神においてインド中心であり、この地域特有の土地、気候、そして生活のリズムから生まれています。
これらすべてが、理想的な精神的・心理的成果へと繋がります。「愛着」(ウパーダーナ)はあらゆる欲望の根源であると言われています。激情的な人や無知な人が自らに課す、満たされることのない世俗的な欲望は、この世から来世へと続く果てしない苦しみを引き起こします。これが東洋哲学の、存在の根源的な苦しみです。その対極にある「無愛着」(アヌパーダーナまたはアパリグラハ)は、根本的な美徳であり、ヒンドゥー教やジャイナ教の修行僧が立てる五つの誓いの一つです。無愛着を通して、彼らはこの世を捨て去ります。物質的な束縛や欲望から解放され、味覚への渇望といった卑しい衝動を手放し、死までの最後の断食、サレーカーナへと至ります。選ばれた少数の僧侶や真摯な瞑想者だけが辿るこの道は、究極の規律と禁欲主義を要求します。
当然のことながら、宗教的な禁欲主義者は感情を完全にコントロールしなければなりません。第四チャクラの調整は、その絶妙なバランスを常に維持するための鍵となります。このように、アユールヴェダとヒンドゥー教は深く絡み合った体系です。それでもなお、アユールヴェダの知識は禁欲主義者だけでなく、内なるエネルギーを賢くコントロールしたいと願う一般のユーザーにとっても価値があります。但し、逆説的に言えば、条件として、アユールヴェダは激情の様式、つまり自我に根ざした行動を超越する覚悟を持つ人々にのみ、真の恩恵をもたらします。
以上
